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ピュロン主義者としてのプロダクトオーナー

2222-42

2222-42

哲学スクラムプロダクトオーナー

ある日突然POになった哲学者の話; 懐疑主義的アプローチ

# 予期しないことは予期しない形で生じる

人生においてはいろいろなことがある。そして、予期しない事が生じる。当然ながら、予期しないことは予期しない形でやってくる。そういうことが半年ほど前に私に降りかかってきた。自分のキャリアパスにおいて全く検討していなかったことが、である。

「今日からプロダクトオーナーをやってください」

ある日、このように伝えられた。これまで私はエンジニアリングマネージャーとして事業、組織、そして技術を主に見てきた。エンジニアとしてプロダクトの方向性やPBIについて意見を言うことはあれど、POとして方向性を決めると言う事は経験がなかった。

そんな私にプロダクトオーナーをやれ、というのはあまりにも突然のことであるが、事業や組織の都合上致し方ないという判断をして、自分自身も納得し、さらに幸いなことにチームも納得した。

だが読者諸氏においてはすぐに納得できるものではないかもしれない。もしプロダクトオーナーになりたいと思っている人であったとしても、何の準備もなく、今日から、明日から、来週から、と言われたら戸惑う事は必至であろう。

もちろんプロダクトオーナーは誰でもすぐなれて、すぐ実力を発揮できるものとは限らず、ある種の適性があるだろう。幸いなことに、EMにおいてはその特性を満たすための部分的な側面があろう。というのは、プロダクトオーナーと言うのは意思決定をせざるを得ないからであり、その意思決定の材料を得るためには、事業、組織、そして技術についてのある程度の背景知識を持っている必要があるからである。加えて、その決定においての方法においては、ステークホルダーとの合意を得ること、ステークホルダーの求めているものを把握してそれを満たす形で提示すること、といったスキルが求められるからである。これはエンジニアリングマネージャーがその職務の領域でやっていることと共通するものがある。しかし、それ以上に重要なものがあるはずであろう。この特性について半年ほど前の私は十全には理解していなかった。

# 半年を振り返って得た一つの教訓

そして、かれこれ半年ほど、私はプロダクトオーナーをやってきた。今、現在の自分とこの期間を振り返って、ある程度プロダクトオーナーとして私がコミット・コントリビューションをできているのはなぜかを考え、加えて、もっと早くに明確化しておけばよかった、もっと効率的に、もっとよく振る舞えて、チーム、そして事業そしてユーザへともっと価値提供ができたのではないかと思い直すと、1つの指針1つの教訓というのが出てくるだろう。

ピュロン主義的なアプローチを取れ

# 本論に入る前の補足

本記事では古田徹也(2026)『懐疑論; 古代ギリシアからデカルト、陰謀論まで』を主として参考書籍にしている。しかし、当該書籍においてはスクラムやアジャイル、そしてプロダクトオーナーについては当然ながら扱っていない。プロダクトオーナーと関連するところの解釈については筆者の判断によるところであり、当該書籍に責任はない。なお、断りなくページ番号を振っている場合は、当該書籍の引用元もしくは参考元を指しているとする。

なお、後述することであるが、ピュロン主義とスクラムの経験主義的側面には奇妙な類似性と、プロダクトオーナー視点から見ると類似性以上の探求に関する一致が見られる。しかし、これは学術的に確立した考えではなく、筆者の主張である。先んじて本記事の狙いを穏当に語るなら、事業を駆動させるドメインを実装するためには、独断論にならずに探求をし続けなければならないこと、そして、自分の持っている道具を組み合わせるともっと面白いことができること、というのを示すことである。

# ピュロン主義とは何か

ピュロン主義と言うのは何か。古代ギリシャにおける懐疑主義の立場である。懐疑主義と聞くと、読者諸氏の中には、デカルトのように何でもかんでも疑う立場や、真実は把握不可能であるという考え方の立場、もしくはマトリクス的な外界全体の実在を疑う立場かと思われるかもしれない。しかし、ピュロン主義はそれらと違う。ピュロン主義と言うのは、高校倫理学の教科書とかにも載っているようにアタラクシア(不動の心)への到達を目指す立場であり、その手段として「判断保留」というものがある。(p.78, p.204, p.210, p.217)

この判断保留というのがどういうものかと言うと、決して思考停止という意味ではない。物事の真実を把握できると断定する立場(独断論者)でもなく、物事の真実を把握できないと断定する立場(否定論者)でもなく、どちらの立場にもつかず、探求を続けると言う立場である。性急さから遠ざかり、そして日常に回帰し、日常生活を熟達しつつも、その日常を相対化すると言う道である。(p.51, p.57, p.85)

以下に、一部比較表を抜粋して整理しておく(p.131)。

ピュロン主義方法的懐疑論
目的判断保留の徹底によるアタラクシアの獲得絶対確実な真実を目指すための一時的な方法
動物観人間以外の動物が理性を備えている可能性、および、理性の能力に関して人間に優越する可能性を認める人間を思考し判断する存在として捉え、その点で他の動物とは区別する。
状況依存性特定の文化や状況のなかに織り込まれた存在として人間を捉える特定の文化や状況から遊離した普遍的な理性を働かせうる存在として人間を捉える

なお、ピュロン主義における懐疑というのは、全面的懐疑論や方法論的懐疑論のように、無責任な懐疑ではない。生活形式、いわば常識や日常生活の成立している上での懐疑であり、主張の足場を維持する責任を持った懐疑と言えよう。(p.154, p.161, pp.177-179)

そして、ここから述べるスクラムとピュロン主義との関係性において重要なものを先に述べておこう。それはスクラムの経験主義的な側面、つまり、透明性・検査・適応である。ピュロン主義をまとめたセクストス・エンペイリコスは医学を生業としており、独断的な理論に従うのではなく、観察と経験に従っていた(p.47)。ここにおいてピュロン主義の懐疑主義というのは、スクラムの経験に基づく実践と親和性があると筆者は考える。

# プロダクトオーナーの適性としてのネガティブケイパビリティ

このような懐疑主義的なアプローチがどうしてプロダクトオーナーにとって良い影響を与えると私が考えているのかと言うところについて後に語ることとしよう。

その前に、プロダクトオーナーの適性について考えよう。私がこれは重要なケイパビリティの1つであると思っているのが、「ネガティブケイパビリティ」である。ネガティブケイパビリティと言う言葉はよく知られているかもしれないが、詩人ジョン・キーツの言葉を借りれば、「短気に事実や理由を求めることなく、不確かさや、不可解なことや、疑惑ある状態の中に人が留まることが出来る時に見出される」能力である。(p.196)

どうしてこのネガティブケイパビリティがプロダクトオーナーにとって重要なのか。ここでスクラムガイドを振り返ってみよう。プロダクトオーナーは、プロダクトゴールを策定し、明示的に伝え、プロダクトバックログアイテムを作成し、明確に伝え、プロダクトバックログの最終的な順序を決定し、プロダクトバックログの透明性と理解可能性を担保し、そして、プロダクトによる価値提供を最大化する責務を持っている。他方で、スプリントゴールはスプリントごとに、スプリントプランニングでスクラムチーム全体が協働して作成する。

ここにおいて、ゴールを所与のもののように扱って、そしてそれが確定的なものであるように振る舞う、というのは、スクラムやアジャイルの考え方に反すると筆者は思う。もちろん、ゴールを設定する際には胸を張って言うべきであるが、しかしながら、スクラムである限りにおいて、そしてフィクションではなく現実世界である限り、不確実性や不可解さと言うのは切っても切り離せない。そして、事実や理由と言うところも明確にわからないのは当然である。短気にならず短期的に求めず、性急さから離れて長期的に見なければならない。この要素がスクラムやアジャイル、そしてプロダクトオーナーにとって求められるマインドであると筆者は考えている。

# 判断保留に導く「十の方式」

もしこのネガティブケイパビリティなしに短気に追い求めたり、疑うことのないままで進めたりしてしまうと、どうなるだろうか。ゴールが固定化され、リバイズができなくなり、どんどん新たに進展をし続けるということができなくなって詰まってしまう。そのためプロダクトオーナーとしてもし重要な資質を挙げるとするならば、ネガティブケイパビリティの存在である、と筆者は考える。

では、このネガティブケイパビリティを養うためにはどうすればよいか。筆者が思うに、まずはピュロン主義の「十の方式」を使ってみるのはどうかと提案する。この「十の方式」は、性急な断定を保留する習慣を身体化する装置であり、それがキーツの言う『不確かさに留まる』力の訓練になる、と筆者は考える。1この十の方式は、ビジネスにおいて非常に重要であると筆者は思う。以下にピュロン主義の十の方式を列挙しよう。(pp.57-97)

  1. 動物相互の違いに基づく方式
  2. 人間同士の違いに基づく方式
  3. 感覚器官の構造の違いに基づく方式
  4. 状態(状況)に基づく方式
  5. 置かれ方と隔たりと場所に基づく方式
  6. 混入に基づく方式
  7. 存在する事物の量と構成(調合)に基づく方式
  8. 相対性に基づく方式
  9. 頻繁に遭遇するか、稀にしか遭遇しないかに基づく方式
  10. 生き方と慣習と法律と神話を信じることと、独断論者の想定に基づく方式

以上である。これらを列挙されても何が何だかわからないと言うところはあろう。詳しくは記事や解説書を読まれることをお勧めするが、ここではこの「十の方式」の内からプロダクトについて考えることにつながりやすいと筆者が考えたものを通して概観しよう。

まず第一の「動物相互の違いに基づく方式」に関するものである。象や蟻や蝶が見ているもの、感じているもの、聞いているものも、これらはそれぞれに違って現れているはずであり、そのように行動している。そして、その感覚は人間よりも優秀である可能性がある。「人間同士の違いに基づく方式」にも関係することではあるが、人間に現れるものを特権化することは出来ないということが見出せる。これはソフトウェア開発をしている我々には馴染み深いものであろう。我々が取り扱っているシステムやソフトウェア、そしてプロダクトと言うものは、人間の感覚とは違った、感覚と呼ぶべきものを持っていると考えられる。というのも、ログ・テレメトリ・APIクライアントなど「人間の目には現れないものの現れ」が当然としてあり、その「感覚」によって我々は行動や抑制を行っている。それを踏まえてエンジニアはシステムやソフトウェアやアプリケーションを設計したり実装したり運用したりする。その際に、人間のことを第一に置いているとしても、人間の感覚が最も優れていると言う仮定などあってはならないはず。

第二の「人間同士の違いに基づく方式」について考えよう。この人間同士の違いと言うのはある。集団において、最大多数の結論が出たとしても、他の集団ではそうではないことは往々にしてある。さらに言えば、集団ではなく、各人においても、先程述べた人間が特権視できないと言うのと、同じようにある優秀な人が特権的に優れていると述べることもできない。もし開発者の中において、これが最も優れた選択だと思っても、実際には他の集団、matsuri technologies株式会社においては特に事業部はそうは思っていないことがある。さらに、プロダクトオーナーが考える人、エンジニアは作る人、というような分業がよろしくない、ということも関連するだろう。分業がよろしくない、というのは、それはスクラムの1チームという考え方や、個人との対話や協調を大事にする考えがあるからであり、そしてなによりも一緒にやった方が優れたものが生まれるからである。

第四の「状態(状況)に基づく方式」から考えれば、ビジネスが常にそうであるように、我々もまた状態や状況によって全く異なる判断をする。特に事業においてスチュワートが『マネジメント神話』の中で述べていたように、マネジメントはシーシュポスのようである。つまり、質が重要だ→拡大しなければならない→コンパクト化しなければならない→効率的にならねばならない→人間関係を良くしなければならない→質が重要だ、と言う形で、ぐるぐるぐるぐる回っていくものである。ある時においてプロダクトの価値への貢献として最も優先するべきものが、他のものに取って代わられることは往々にしてあり、そしてスタートアップ、特にアジャイルな考え方・マインドが必要な状況においては、固定的に考えることは避けねばならないだろう。この状態・状況のことを踏まえずに独断することは避けねばならない。

第八の「相対性に基づく方式」についても少し触れよう。例えば、子の定義が親に依存し、また親も同様にそうであるように、物事の規定は相対的である。つまり、独立した純粋性なるものというのはない。ソフトウェア開発の文脈で考えれば、要望や要求といったRequirementはRequireする主体に依存するのであり、優れた設計が優れているのは文脈にどれだけ応じたか、どれだけ考慮し、どれだけトレードオフにさらしたか、というところによるものである。

また第九の「頻繁に遭遇するか、稀にしか遭遇しないかに基づく方式」から考えるべきこととしては不具合について考えれば良いだろう。不具合と言うものは素早く直すべきであるが、しかしながら、その重大さというものとは別に、その頻度は大きな判断材料となるだろう。

そして最後に「生き方と慣習と法律と神話を信じることと、独断論者の想定に基づく方式」からは、思い込みを排除することにつながる。我々は職場や集団の中における常識を無条件に受け入れがちだが、プロダクトを通して価値を提供することにおいては、自分らの慣習、自分らの生き方、自分らの常識と言うものに囚われてはいけない。他を見て自分を相対化しなければならない。他社の事例や業界分析等を見て、自分らのことを相対化してみるべき、というのは事業においては当然かと思われるが、それを自覚的に疑い、自分らがどう進むべきかというのを考える。

以上、概略として粗雑な解説になってしまい、かつ、長くなってしまったが、このようにピュロン主義の「十の方式」はプロダクトについて考えるための助力となるであろう、と筆者は、この期間を見返しても、判断している。

# ピュロン主義的アプローチのPOとしての実践

ところでこのピュロン主義について、私がどのように出会ったかと言うところについて、振り返ってみよう。まず私は学部時代、矛盾許容論理について研究していた。その中では、ピュロン主義はある種の戯画化されていた。つまり、何でもかんでも矛盾を許容すると言う立場として特徴づけされていたのである。つまり、「命題Pかつ命題Pではない」、これが任意の命題について当てはまるとされていた。もちろんこれは誤解であり、ピュロン主義というのはそもそも独断論にはならないと言う立場であるので、Pという主張もPでないという主張も、性急にはしないのである。そんな事情を私は当時は把握しないままであった。

その後、私は大森荘蔵(1994)『知の構築とその呪縛』を読んだ。この中において大森は懐疑主義の成立可能性についてかなり否定的な立場をとっている。特にデカルト的な懐疑主義と言うのは不可知論になりやすいということ、そして彼らが行っている論証は、そもそも彼らは言語や我々の判断について誤謬をしていることを指摘している。その上で、我々は日常生活において、何でもかんでも「欺き」があると言うようなことを言わず、むしろ「誤り」があったと言うであろうという指摘をしている。大森の意見はピュロン主義と近いところはあるが、古代ギリシアのピュロン主義と異なる点で面白かったところは、科学革命以後の主観と客観、世界と意識、といった分別を当たり前に扱っているところに対して、それを捨てずに、日常的描写と科学的描写というのも、重ね描くことによる解決、もしくは治療的行為を提案していた点である。当時の私にとって、ある種のデカルト的な方法的懐疑論というのを、論理についても活かせないかと夢想しており、方法論的論理懐疑論みたいなものはあろうかと言うふうに考えていたが、それは成立し得ないのか、とがっくりしていた。その他にも、一般教養として、また哲学史として、懐疑主義の議論については触れてきており、特に後述の古田が述べるようないわゆる後期ウィトゲンシュタインに関してのキャッチアップも私の懐疑主義への関与としては補足しておく2。

そして先日、古田徹也が『懐疑論; 古代ギリシアからデカルト、陰謀論まで』と言う本を出したので、それを読んでいた。その中でこの「十の方式」に出会った。この本を読んでいた時はちょうどプロダクトオーナーとしてある程度回せるようになっており、改めて自分の行動や振る舞いを振り返る余裕ができていた。そして、読み進める中で、自分がプロダクトオーナーとして行動している時には、ある種の懐疑主義的なアプローチをとっていると言うことに気づいた。

プロダクトオーナーが行うことについて先述したことのうちには、プロダクトバックログアイテムの順序について決定する最終的な決定権を持っている。この順序を決めることにおいて、私がやったことは、ただ順序を決めることではない。順序の背景にある評価関数を明らかにしようとする試みがあった。評価関数を明確化するためにまずやったことは、プロダクトオーナーがやることとして、すでにあるプロダクトバックログのアイテムを収集すること、そしてまだ明瞭にはなっていない、ステークホルダーが欲しい物事や開発チームがこれからやろうと思っているものの収集である。加えて、ぼんやりとみんなの中で共有されている価値観、例えば、質は重要である、コードクオリティはその中でも重要、しかし、スピードが一番重要であるといったものも並べていくことである。そして等しく並べた後で、どこにどれだけ労力を割くか、と言うところのレバーを明確化したことである。そのレバーを設定した上で評価関数を作り、その評価関数に基づいて順序を決めていくことをやった。これがプロダクトオーナーとして最初に取り組んだことの中の一つのことを一連の流れとしたものである。もちろん、いきなりプロダクトオーナーになるにあたってはこれは特別なことではなく一般的な方法であろう。当然、それ以前にあった評価関数と順序というのには、ある種の一貫性を持たねばならない。これは期が変わったタイミングにおいても同様のことが言えるだろう。が、それを得るための過程において、かなりピュロン主義における十の方式に近いものを積極的に活用していたと特徴付けることができるだろう。人間同士の違いに基づく方式、相対性に基づく方式、生き方、慣習について、これらに基づく方式がその背後には一貫してあると言えるだろう。

なお、ここでの一貫性を持った順序を作ったり、評価関数を作ったりする、というのは、絶対確実な真実のための基準や、中期アカデメイア派のような「説得的表象」(p.217)といったもの、これらを作ることを意図しているものではない。ある種の慣習を作り、期や状況が変わった時に変わるものであり、これ自身が相対化されるものである。

# ピュロン主義的なアプローチの訓練

ここまで、具体的にピュロン主義的なアプローチのプロダクトオーナーの観点での有用性を語ってきた(サンプル数としては少ないし、類似関係以上のものを示せているかというと、時の風雪に耐えることによって判断せざるを得ないところがあろう)。では、実際にピュロン主義的なアプローチを用いてプロダクトオーナーをやっていこうと思ったときに、具体的にどのような訓練をするべきなのだろうか。自分は幸いなことに哲学のバックグラウンドがあり、哲学に関する教育を学部および修士と計6年間受けてきており、また普段においても哲学書を読んだり、哲学についての意見交換をしたりするなどといった日々の訓練をやってきたこともある。しかし、もしそういうバックグラウンドが無い人に対しても提供するのであればどのようにするだろうかと考えてみよう。

まず身に付けるべき事は、客観的な記述は、絶対的な記述ではないという事実である(p.25)。定量的に測った数字として何かが出ていると言うものは重要な根拠にはなり得る。しかしながら、それが「絶対」正しいとは限らない。特にプロダクトにおいては、定量的に測り得ないもの、もしくは一旦何かを経由してからしか定量的にはならないものというものが多くある。それら、つまりは定量的なものと定性的なもの(このような二分法も愚かではあるが)を比較することにおいて、客観性を絶対性に転換してしまう事は、誤った行為である。その前提の上で、PBI、プロダクトバックログアイテムを等しく並べることができなければならない。等しく並べたものの中で、一体どうしてこのプロダクトバックログアイテムが重要なのか、どうすればこのプロダクトについてよくするためのものになるだろうかと言うところについて、思い込みや独断というのを排除していかないとならない。そうなった時に、ようやく、一体、ピュロン主義の判断保留へと導く方式のどれが使えるだろうかと考えてみるべきであろう。例えば、開発チームから見るとリファクタが重要である、では事業部においてはどうだろうか、事業部にとってリファクタ単体だとおそらく重要なものと見えていないであろう。また、あるときにおいてはインプットにこだわるのをやめて、アウトプットの質に注目しようと言う時期があったが、しかしながら、「質は過去の話だった」と述べて拡大を目指していくように転換することも想定されうる。そうなった時に、もしくはそうなるだろうと判断した時に、このPBIはどうなるだろうかと考えよう。そうするとこのプロダクトバックログアイテムもしくは意見と言うものを等しく配置させて比較すると言う柔軟性が提供できる。

ただし、ピュロン主義がそうであるように、このようなある種安定した慣習的なものに従うという側面があり、これはある種の硬直性でもある(p.97)。もちろん自分の手法や、自分の判断、もしくは自分のバイアスと言うもの自体も相対化して論じなければならない、というのはピュロン主義において共有されている(p.219)。つまりは自覚して行動しなければならないというのが、ピュロン主義の1つの重要な教えである。

# 想定される反論に応えて

他方でプロダクトゴールが欲しいと言う気持ちが湧いてくるのも理解ができる。ところが、物事の真実のようなもの、もしくは理想と言うものを置く事は、独断論的であり、ピュロン主義に反している。つまりは、ピュロン主義というのは、プロダクトオーナーの仕事と矛盾するのではなかろうかと言う疑いを向けてこられる方がいるだろうし、さらには、この記事の冒頭からずっとその疑いを持っている方もおられるだろう。もしくはアタラクシアと言う不動の心と言うものは、スクラムやアジャイルのような変化する環境を前提において、素早く対応して素早く提供すると言う所の考え方と相反するのではなかろうかと言うふうに思われる方もいるかもしれない。

筆者としてはプロダクトゴールと言うのは確かにある。しかしながら、それは固定した形であってはならないと考えている。ここで筆者が意図しているのは、不変であってはならない、神聖なものとは思ってはならない、ということだ。ゴールは終点ではなく通過点で、更新され続けるべきものである。よって、常にゴールを探求し続けるというスタイルが求められる。もちろん仮のものを置くと言う事は方向性や集中のためには重要である。しかしそれを固定してはならない。

そして、プロダクトゴールを絶対的な真理として扱わずとも、検査と適応を前提にプロダクトの方向性を決定することは可能である。スクラムでは現行のプロダクトゴールを定めて明示的に伝えるが、判断保留の対象はそれを独断的な真理として固定化することであって、行為の選択ではない。現れ・慣習・技術に従って行為するという古代懐疑主義者の生き方そのものが答えとなる。そのために、探求したり、開発したり、そして評価関数や評価順序を決めたりするという、材料がある。そして、アタラクシアがスピードと相性が悪い、というのも文字面の不一致なだけである。むしろスクラムやアジャイルにおいて無価値なものを性急に作ることは求められておらず、ちゃんと価値があるものをちゃんと素早く提供することが重要であり、作るだけでは意味がなく、価値があってこそ意味がある。

さらに、ピュロン主義における相対主義的なところから、プロダクトオーナーが一名であることという前提に反する、と批判することもあるだろう。これについては、確かに、等しく並べるというピュロン主義のスタイルは、プロダクトオーナーの存在理由と相反するところはあるかもしれない。しかし、そもそもプロダクトオーナー以前にプロダクトが存在する理由を考えるならば、それは利害関係の中における合意形成が必要であるからであり、そこに独断論や単一主義的な考えを否定する材料はない。そして、ピュロン主義が目指すアタラクシアというのは、日々の生活に習熟すること、しかし、習熟すること自体を省みて、さらに明確化しようと探求することである(pp.208-212)。ここにおいて、プロダクトを良くするために取り組むこととの間に矛盾はなく、あったとしても見かけ上のものに過ぎない。

# 「判断保留」は思考停止ではない

ここで、補足して書くべきか、もしくはプロダクトオーナーにおけるピュロン主義的なアプローチおよび懐疑主義的なアプローチにおいて重要な教訓としておくべきことか、いずれであってもここに明記しておこう。それは「判断保留」と言うのは思考停止ではないということである。丁寧に探求し続ける、そしてその探求において自覚的であるということ、それが判断保留である。このような判断保留はスクラムにおける、いや、事業における課題に向き合う姿勢とよく似ている。プロダクトゴールが存在する・しない、と言わず、それを探求し続けると言う姿勢、そしてそのプロダクトゴールを探求するためにはどうすれば良いかを探求する姿勢、そしてそのためのプロダクトバックログアイテムをどう作るか、そこに独断的なものはないか、思いなしはないかと言うことによく注意を払い、価値提供のための手法を考え続ける姿勢。PBIや課題をただのタスクとして処理するべきものと置くのではなくて、次につなげるためには、どのようにすれば良いか、それにつながるようなアイテムとしなければならない。このような姿勢はまさに探求的な態度である。

# おわりに

この記事は、プロダクトオーナーとしてピュロン主義的なアプローチを取ることを勧めるものであった。しかし、ピュロン主義であろうがなかろうが、先にも述べたように、プロダクトオーナーが考える人、開発チームが作る人といった二分法は避けなければならない。当然、プロダクトバックログアイテムを語る際にも、Refinementをする際にも、プロダクトオーナーがただ単に価値を語るだけではなく、開発チームおよび開発者、そしてステークホルダーが、それに価値があるのかと尋ねたり、価値があるようには見えないと疑いの目を向けたりすることが必要であるし、プロダクトオーナーやスクラムマスターはその仕組みが成立することを求めなければならない。しかし、何もやはりスクラムやアジャイルに限らず、探求し続け、そして独断論的にならず、熟慮し、そして日々の生活に熟達し、そしてその生活に対してまた判断に対して自覚的であるという事は、任意の人に対して進めるべきことであろう。

今回の哲学的なバックグラウンドの話と言うのはなかなか前提知識が要求され難解な箇所があったかもしれないが、これが少しでも伝わり、そして、読者諸氏の助けになれば幸いである。

# 参考文献

  • 大森荘蔵(1994)『知の構築とその呪縛』、ちくま学芸文庫
  • 古田徹也(2026)『懐疑論; 古代ギリシアからデカルト、陰謀論まで』、中公新書
  • マシュー・スチュワート(2023)『マネジメント神話――現代ビジネス哲学の真実に迫る』、明石書店

# Footnotes

  1. これは方式ではあるが、ピュロン主義者はピュロン主義者らしく、この「十の方式」と言うのはあくまでも仮の十個であって、確定的ではないと言っている。 ↩

  2. 古田の特徴としては、ピュロン主義と後期ウィトゲンシュタインとの関連性を述べているところであり、私の背景として関係するかもしれないため、ここで補足しておいた。 ↩